12/07/2011

里山カレッジ二日目

こんばんは
里山カレッジの二日目のレポートです。

歳を取ると目覚まし時計がいらなくなりました。
この日も丁度良い頃に気持ちよく目がさめました。
なんとなく、この日はよい天気になるだろうと、感じていました。

朝起きて、顔を洗いに洗面所に向かうと窓からは青空の雲に朝日が反射し、強烈なコントラストを放っていました。

お世話になった民宿しもださんです。とても大きな立派な建物です。
 9時からのカレッジまでに、朝食を済ませて、宿の周囲を少し散歩します。

宿の目の前に流れる清流気良川からは、水の調べが聞こえてきます。
写真からもおわかりかと思いますが、12月の雨上がりの晴れた朝の空気は
何事にも代え難い満足感で、私の心を満たします。
 これぞ、里山
と言った感じの風景と張り詰めた空気を堪能して、車に乗り込み会場である資料館に向かいます。
美味しそうでしょ?
 車を走らせていると、昨日お世話になった二件目のお宅の庭にお父さんが早速作業をしているようでした。
車を路肩に駐めて、お父さんに感謝の挨拶をします。
朝取り立ての立派な青ネギを、家の裏に回って見せてくださいました。
お母さんもいらしゃって、昨日のお礼を伝えて少しお話しして、その場を立ち去りました。
先日畝を作ったままの畑の横には、白菜がたくさん植えてあり、みずみずしいその葉にはダイヤモンドのような
朝露がキラキラと眩しかったです。

 資料館に到着して、二日目のカリキュラムが始まるまで、少し周囲を散歩してみます。

少し出遅れた紅葉は、朝露でコーティングされ艶のある紅(いろ)をこれでもかと放っていました。
そこら中にあるもの
全てが美しく、愛おしく感じる瞬間です。
こんな幸せを感じる事が出来るのが、もしかして本当の幸せなのかもしれません。

今日のカリキュラムのテーマは「表現」です。昨日感じた様々な事を
インプロビゼーション(即興)と言うメソッドを通じて、各が発表します。

所謂ジャズのセッションのような感覚ですね。

個人でのインプロでは無く、グループを組んで、身体の動きと
発言を通じて、セッションをする準備を進めます。
二日目の講師は岐阜県立森林アカデミーの嵯峨准教授による指導の下、先日の見学で見た動きや、自分自身の感じ方を
身体を動かす事によって表現します。

その表現は、グループの人間に注意を向ける事によって、自分の動きなどを加えながら時間軸に沿っていろんな動きに変化したりします。
初めての試みに、初めは少し恥ずかしそうだったり、手間取ったりしていた参加者も、時間が経つにつれて
慣れてきていました。
 この試みは資料館の横にある講堂や体育館として使用されていた、とても開放的な空間を利用して行いました。

素人考えですが、まだまだ手入れをすれば使えそうな建物なんですね。
床・天井・壁・窓・・・。
全てが、私にとっては懐かしいけれども、とても新鮮に感じます。

途中休憩には、お茶やコーヒでまた親睦が深まります。
この大きな建物にストーブがたった2つしか稼働していませんでしたが、なぜか不思議な事にそんなに寒く感じなかったんです。
もしかして、お日様の力を、講堂の大きな窓たちが集めてくれていたからなのかもしれません。
それと、参加者の熱気と・・・。
そして、最後は数名がグループを組み

一名が ※名宝で感じた事

反対側の一名が ※日頃日常で感じている事

シンメトリーに座った反対側のメンバーが。それぞれ先日の時間軸に沿って想いを回想させます。
その話を受け取って、反対側のメンバーが自分の仕事や日常の想いを回想し、発表します。

その言葉の対比というか、キャッチボールの狭間にいる数名のメンバーは
放たれた言葉を、動きによって具体化する作業をします。
パントマイムのように、言葉を動きに繋げて、動き自体も隣のメンバーとの掛け合いによって変化が生じます。

ただの、感想発表とは違う、参加者にとっては殆ど初めてと言った試みでしたが、それ故に見ているものにとっては
心に残る何かが、言葉や動きから感じ取れた事かと思います。

私はいろんなグループでの発表をじっと聴いていました。
言葉での発表のメンバーは、おそらく私よりも歳が下の人たちが殆どでした。
彼らは若いなりにも、自分の中にある疑問や感動を一つ一つ丁寧に言葉を紡いで、真剣なまなざしで発表していました。

なんの原稿も、そしてプロンプターもなく、自然に彼らの口からは、それぞれの想いが語られていました。

私が苦手な暑苦しさが微塵もない、とても素直な彼らの言葉は、現在の日本や地域、そして世界が抱える様々な問題を
凝視している様が伝わります。

普段何気なく使ってしまう「今どきの若い子は」そんな事を言うのが申し訳なく思ってしまうような
素直な想いが発表からは伝わってきました。

今回私は、名宝で感じた事を言葉で発表する役に当たってしまいました。

昨日初めの言葉で「決まった答えを導く為の企画ではありません。」と話されていたように
私自身も、たった二日で物事の答えを判断するには到底至りませんでした。

私たちが産まれる前、まだ自動車や動力装置が無かった時代。
コンビニも、iPhoneも、テレビも何もない時代。

そして半世紀ほどで、世界は物で満ちあふれました。
発明により生み出された生産物は、まだ使えるか否かを問いかける隙もなく、容赦無くデフレの垢となって
人間の目に付きにくい野山の片隅に廃棄され、科学物質を垂れ流し、埋め尽くしていきます。
お父さんを柱とする家族コミュニティーも崩壊しました。
世帯を越えて同じ屋根の下で暮らす事を拒否する若者は、各に里を離れ家を建て、どんどんと中央に人口も集中しました。
人口が集中する中央では、同じ屋根の下ですら会話が途絶え、まるで新建材の壁だらけの家に飲み込まれてしまったようです。
地球環境の破壊が猛スピードで進んだのも、たったこの100年程の間に「たまたま産まれた」人間の果てない開発の大いなるバグだと感じます。
そのバグは隠蔽されながら積み重なり、時には放射能をまき散らし、それを生み出した人間に容赦無く襲いかかりました。

人間は物事の二面性を見る力を無くしてしまった感じがします。
良い部分と悪い部分
光と影
そうした物事のバランスは、どこがそのしきい値として一番相応しいのかを検証する必要があると思うのですが
そうしたプロセスをバイパスして、権力や資本拡大の波に流されてしまった感じがします。

私の大好きなJoni MitchellのBoth Sides,Now〜青春の光と影〜
結局私はこの曲の歌詞のように、自分自身でもまだ、答えが見つかっていません。

ジョニはこう歌います。

雲はまるで天使の髪の毛のように美しく
アイスクリームのお城の様
でも、その雲は時には輝く太陽を遮り、雨や雪を降らせます。
私のする事も、その雲に邪魔をされてしまいました。

私は雲を見たのは二つの側面から
上から、そして下から

でも、本当は雲の事なんて、なんにも解っていません。

そう、失った物もあるし、得た物もある。
毎日暮らしていく中で。

人生を二つの側面から見ました。
勝ち
負け
でも、本当は人生の事なんてなにも解っていません。



そうしながらも、私はデジタルカメラとパソコンを使いながら
このブログを更新しているのでした。

二日目の最後のイベント
古民家源右衛門での、おときのお昼ごはんレポートは次回です。

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